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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第3節 星に願いを [1]




 霞流慎二は僕に言った。桐井愛華のためになりたいと言った。だから僕も思った。(れい)のためになりたいと思った。
 だから逃げた。醜い世界から逃げた。
 祈りなさいと声を掛けてきた老女に言われるがまま、魁流は布教活動にのめり込んでいった。だが、どんなに心を込めて救いを人々に広めようとしても、社会が、人々がそれを求めてはくれない。
 世の中は荒んでいる。
 毎日毎日、朝から晩まで足を棒のようにして歩き回る。冷たい視線や、拒絶反応を全身に浴びながらヘトヘトになって施設に戻る。
「贅沢は身を汚します」
 質素な食事に薄っぺらな布団。まるで時代錯誤な生活をしながら、疑問と葛藤する。
 本当にこんな事をしていて、鈴は喜ぶのだろうか?
 何を言っているんだ。そんな軟弱な心持だからこそ、鈴は離れて行ったんだ。
 離れていった。
 鈴は、僕の傍から離れていった。僕は鈴に見捨てられたという事なのだろうか? なぜ?
 僕が鈴を守りきれなかったから? 鈴を、醜い争い事の蔓延(はびこ)る世界から、守ってやることができなかったから?

「本当に毎日毎日、みんなよく飽きもせずに嫌味や僻みや蹴落としばかりを口にできるものね」

 唐渓での生活を、鈴が楽しんでいたとは思えない。

「こんなところ、私は居るべきではないのかもしれない」
 だが、そんな鈴を、魁流は必死に宥めた。
「僕が傍にいる。それに、君にだって、獣医になるという夢があるだろう?」
「えぇ、そうよ。でなければ唐渓なんて辞めているわ。あなただってそうでしょう?」
 穏やかで、何かを悟ったかのような瞳で見つめる。
「あなただって、本当はこんな醜い世界からは早く抜け出したいと思っているんじゃないの?」
「僕は」
 魁流は、学校を辞めたいと口にする鈴を、必死に引き止めた。鈴は、唐渓中学に通っていた頃から退学を示唆していた。唐渓高校へ進学するのを躊躇っていた時期もあった。魁流が説得をしていなかったら、普通の公立高校へ進んでいたのかもしれない。
 だって、鈴がいなくなってしまったら、きっと自分は壊れてしまう。醜くて争い事ばかりの世界など、一人では耐えられない。だが、鈴と一緒に学校を辞めようとは思わなかった。
 母が許さないだろう。それに、聖翼人(えんじぇる)
 自分を目の敵のように睨んでくる実の妹。
 どうしてだろう、彼女の存在を思い浮かべるとどうしても、学校を辞めたり家を飛び出そうという気にはなれない。あのような敵意に満ちた視線を向けてくる姿など、一秒足りとも見ていたいとは思わないはずなのに。
 魁流は、妹を拒絶する事ができなかった。自分の後をつけて唐草ハウスにまで来た彼女を、中に招き入れてまでしてしまった。
 なぜ?
「この間、小学生を対象にした入学説明会があったわ。気の弱そうな子が来ていたから、入学はしない方がいいと忠告しておいたの」
「そう」
「きっと入学しても、虐められるだけだわ」
「そうだね。君の忠告は正しいよ」
「私も、辞めた方がいいのかしら?」
「もう少しだよ。あと二年。いや、あと一年と半年で卒業だから」
 そうやって引き止めたから、だから鈴は、僕から離れて天国へと行ってしまったのだろうか? だとしたら、鈴を殺したのは、僕?
 肉体的疲労に加え、精神的にも追い詰められ、次第に魁流は現実と虚実の境がわからなくなっていった。
 あぁ、この犬、鈴が好きそうな子犬だ。鈴が見たら欲しがるだろうな。
 猛暑の夏だった。とあるペットショップの入り口で、ふと立ち止まった。円らな瞳を見ていると、突然子犬がしゃべりだした。
「早く会いにきて」
 魁流は目を見張った。
「早く会いに来て。私、もう待ちくたびれたわ」
 間違いない。鈴だ。
 驚愕する魁流の姿を店内から見ていた店員が出てきた。
「可愛いだろう?」
 中年の男性は、接客特有の愛想笑いではなく、本当に頬を緩ませながら笑った。その身体に魁流は飛びついた。
「この犬、僕にくださいっ」
「え?」
「鈴だ。鈴が乗り移っているんだ」
 只ならぬ様子に、店員は慄いて一歩下がる。
「乗り移るって、おい、君」
「鈴だ、鈴が迎えに来たんだ。やっと来てくれた」
「迎えって、何なんだ?」
「しゃべったんだ。鈴の声がした」
「犬が? おい、君、何を」
「この犬を僕にください」
「おい君、大丈夫か?」
 しがみつく魁流を無理矢理に引き剥がそうとする。揉み合ううちに、魁流は抱えているバッグを落した。布教用のパンフレットが散らばる。その内容を目にして、店員は息を呑んだ。
「お前」
 最近うるさいと近所で噂の新興宗教。
「お前は」
 途端、冷たい視線で魁流を見下ろす。気味悪くしがみついてくる相手を強引に突き飛ばした。魁流は押されて尻餅をついた。衝撃で頭がグラグラした。
 炎天下の中、水も飲まずに何時間も歩き回っていた。体力も限界だった。
「鈴が、来た」
 魁流はそのまま気を失ってしまった。
 気が付いたのは、病院のベッドの上。
 医者に身元を聞かれたが、魁流が所属している教団の名前を告げると、医者は気味悪がった。
 鈴に会いたい。
 救急車を呼んだのは、ペットショップの店員だと聞いた。そこへ行きたいと告げると、医者はあっさりと出してくれた。ワケのわからない宗教団体の人間など、置いておきたくもなかったのかもしれない。
 乏しい持ち金を使ってバスと地下鉄を乗り継いだ。店はすぐに見つかった。
 店の前で、再び子犬と向かい合った。店員が出てきた。今度は見るからに不愉快そうだった。
「宗教ならお断りだ」
「この犬をください」
 魁流は、店員には目もくれずに言った。
「この犬が欲しい」
 子犬の瞳を見つめるうち、双眸から涙が溢れた。魁流はその場に泣き崩れた。







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